“踊る阿呆に見る阿呆/同じ阿呆なら踊らにゃ損”
皆様はこの有名な七・五調の詞をご存知でしょうか。「なんだ。昔からよく言われている戯れ唄じゃないか」「いまさらこれがなんだと云うんだ」「単なる言葉遊びだ」などなど、いろいろ様々な声が聞こえてくるようです。
しかし、この言葉の意味をよく考えてみてください。この言葉は、いったいどんな立場の人が、いかなる所業の人間を見て云っているのでしょうか。はたまた、「踊る」や「阿呆」は何を意味しているのでしょうか。そして最後にあらわれる「損」とは、いかなる状態から何を失うことを以て「損」といっているのでしょうか・・・。
もうおわかりでしょう。この詞は、主体的個人と社会との関係に於いて、ためらうことは損につながるということを言っています。もちろんそれは「言葉の上」です。本当は、付和雷同・曲学阿世の生き方は、主体的自己の在り方ではないということを説いているのです。この詞が七・五調の軽く淡白な戯れ唄の形であらわされているのは、そういった生き方を揶揄する演出であり、わたしたちはこの詞の話者を反面教師として捉えるべきなのです。この詞の考案者の心中にはおそらくこれだけの含意があったものと、わたしには思えてなりません。というのも、そうでなければこの古い詞が現在に至るまで句型を変えずに残り続けるとは思えないからです。このように、ウィットを含有しつつ警鐘をうちならす詞型も、エピグラムという広範な文芸世界におけるひとつの形式であるということをご紹介いたしたく、冒頭にこの詞をご掲示いたしました。
言葉は“意味”です。そして“意味”は捉える人間の状況によって臨機応変に変化します。しかしながら練り上げられた言葉のもつ“意味”は、如実に普遍性を有しわたしたちの眼前に迫ります。そしてそれは、固く鋭い寸鉄のように、警句として人々の心にうちこまれるのです。
文明の進歩に、もはや歯止めはかかりません。わたしたちは帰ることのできない奔放な拡散の中に身を委ねることを迫られています。わたくしども日本エピグラムは、グローバル化のますます進む現代社会においてややもすると揺らぎがちな“人の生きる意味”や“人としての在り方”、或いは“本来人間が持っている本能的な注視力”を維持するために、エピグラムについての世論喚起を行っています。
正直に申し上げて、エピグラムは実際的にはまったく社会の役に立つものではありません。しかし、短い言葉の羅列であるエピグラムは、わたしたちが急速にすすむ社会情勢に身を任せて流されているうちに、きっと“気づき”を投げかけてくれるものだと思います。日本エピグラムはそういった“気づき”の喜びの契機を社会に増やす役割を、自らの使命と捉えています。
日本エピグラム CEO(Chief Epigram Officer)
| サイトマップ | このサイトの利用について | お問い合わせ |
Copy right @ 日本エピグラム